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森村泰昌個展 「自画像の美術史―『私』と『わたし』が出会うとき」

歴史上の人物(画家)に扮した自画像を撮影することを通して,自分とは何か,絵画・表現の本質とは何かを問う活動をしている森村泰昌の個展.国立国際美術館.

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上のパンフレットはもちろんゴッホ.のつもりの森村.化粧品メーカーのスタッフ等による入念な扮装をした上で撮影した写真です.被写体自体が極限まで作り込まれていて,どうみても絵画にしか見えません.

地下3階の第I部では,このような手の込んだ演出をレオナルド・ダ・ヴィンチ,レンブラント,フリーダ・カーロ,ベラスケスといった画家達自身や,その作品に対して行い,作品の意味や画家のありよう自体を再構成しようとするのです.まさにやりたい放題ですが決して難解ではなく,むしろどこか明るくユーモラス.たとえばフリーダ・カーロの部屋.昭和な色合いの花輪の中心に森村扮するフリーダが様々な姿で置かれ,ちょっと葬儀場みたいな雰囲気です.身体に障害があったフリーダの痛々しさと強じんさが不思議なリアルさで迫ってきました.

そして《自画像のシンポシオン》.これは地下2階の第II部映像作品《「私」と「わたし」が出会うとき」》の進行の中核をなすもので,レオナルドの《最後の晩餐》の構図で,イエスの位置にレオナルド自身,それ以外の配置は左から右に向って以下のようになっています.

森村泰昌,マルセル・デュシャン,レンブラント・ファン・レイン,エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン,ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ,アルブレヒト・デューラー,レオナルド・ダ・ヴィンチ,ヤン・ファン・エイク,ベラスケス,フェルメール(自画像は存在しないので彼の描いた女性),フィンセント・ファン・ゴッホ,フリ-ダ・カーロ,アンディ・ウォーホル

ただしデュシャンの席は空いています.この作品を見たときは一つ席が空いていることがわかるだけですが,《「私」と「わたし」が出会うとき」》を見ると,「不在こそが存在の証明である」と言って欠席していることが明らかにされます.たとえばレンブラントが上流階級の娘を妻として幸福そうに見えたが実は息苦しい思いをしていたとか.美術史に詳しくないので本当なのかどうかわかりませんが,ふと京都で見た《ベローナ》が,全然若くも美人でもなくそこらのおばちゃんみたいだったことを思い出して妙に納得してしまいました.

レオナルドの自画像は彼自身の顔ではないとか,カラヴァッジョが自分は絵画で何人もの聖者を殺してきたと独白するところとか,フェルメールの壺とミルクの解釈とか,とにかくこの映像作品も破格に面白かったです.館内での写真撮影もフラッシュさえ焚かなければ自由だし,なかなか愉しい休日の午後でありました.

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最悪想定する傾向はあるでしょうね.でも石橋叩いているだけの人生はつまらない.

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