明恵上人の遺蹟を訪ねる(後編)

草庵跡への看板から左へ山道を入ります.数分で西白上と東白上の分岐点に到着.遺蹟を示す石碑と卒塔婆(卒都婆)が建てられています.明恵が最初に草庵を構えた西白上の峰にはここを左へ.すぐに草庵跡に設けられた石碑に出ました.

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露出した大岩の間にほんの少しだけ平らになっている場所があります.明恵が暮らしたのは本当に小さな庵だったのでしょう.しかし眺めは素晴らしく,湯浅湾を一望することができます.苅藻島や鷹島は右手の茂みに隠れていますが,少し移動すれば見えそうです.白洲の本からのまた引きですが,明恵の行状記には以下のようにあります.

『湯浅の栖原村白上の峯に,一宇の草庵を立て居らしむ.その峰の体たらく(有様),大盤石そびけたてり.』
『前は西海に向へり.遙かに海上に向て阿波の島を望めば,雲はれ浪しづかなりといへども,眼なお極まりがたし.』
『北の峰の中をうがちて,一本の松あり.うしろには白巌かさなりつらなり,青苔むしむせり.』

そのとおり,うしろを振り返ると累々と大岩が迫っています.下まで進んで見上げると,白巌の間を空へ向けて松の幹が伸びています.

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岩をよじ登って頂上へ出てみました.まさに「眼極まりがたし」.800年前のお坊さんと同じ場所で同じものを見ていると意識することで,見えている景色以上にはるかな思いがします.もちろん,「同じものをみている」わけではないことは,重々承知しているのですが.

白洲もここまで来てこの景色を眺め,白い岩の間から松が生い立つ様をみて,まるで日本庭園の原型を見るようだと感想を述べています.私が見ている松は残念ながら立ち枯れしてしまっています.白洲がここに来たのは今から50年前の1965年頃のことなので,さすがにその時の松が立ち枯れたわけではないのだろうと思います.しかしいずれにしても,ここに立ってみると,800年を隔てた二人の視線の重なりが感じられるようです.

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上人はしかし,この場所には長く留まらなかったようです.山頂とはいってもこの場所の標高は400mもなく,漁村で働く漁師たちの声が聞こえて騒がしかったので,さらに奥にある東白上の峰へ引っ越しました.われわれもしばらくここにいてから先ほどの分岐まで下り,東白上へ向かいました.

数分で案内の標識が見えたので,そこを左.矢印が下草で隠れていて,私は間違って直進してしまって蜜柑畑へ出てしまい,引き返すことになりました.最後は下草に覆われた小径を上ると,西白上と同様の石造りの卒都婆が立つ庵室跡へ出ました.

やはり岩稜の上ですが,西白上よりさらに狭い上に,ここからは海は見えず,代わりに深い谷が望めるばかりです.現在では蜜柑畑などの人工物も目に入るので,それほどの深山の趣はありませんが,ここでの修行はさらに内省の度合いを深めたであろうことは容易に想像できます.

上人はここで,『如来に供養し奉』るとして自分の右耳を剃刀で切り落としてしまいます.当然ゴッホが思い出されますが,白洲は,自虐的自傷行為としてのゴッホの耳(たぶ)切りとは異なり,あくまでも宗教的な衝動であったことを強調しています.しかし,ゴッホがもと聖職者志望であって画家を志すのは20代後半になってからであったことや,日本の浮世絵に心酔し,それを「もっとも宗教的態度によって描かれた」と言っていることなどを考え合わせると,やはりどこか共通の精神基盤を感じざるをえません.

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またこの場所で上人は,生身の文殊菩薩が黄金の獅子に乗って虚空に現われるという奇跡を見ます.あまりにも深く経典に没入することができたが故の幻想だと言うのは簡単ですが,私はこうした行状を知るほどに,このお坊さんに惹かれるものがあります.今回は(暖かいとはいえ本来は)厳しい季節に来ましたが,次は桜の季節に来てみたいですね.


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最悪想定する傾向はあるでしょうね.でも石橋叩いているだけの人生はつまらない.

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