野村萬斎主演 中島敦『山月記・名人伝』の舞台を観る

中島敦原作の名高い『山月記』と『名人伝』を,狂言役者の野村萬斎演出・主演による舞台で観ました.兵庫県立芸術文化センタ-中ホール.9年ぶりの再演で,前回公演は妻だけが観ています.

演者は以下.
役者:野村万作/野村萬斎/石田幸雄/深田博治/高野和憲/月崎晴夫
大鼓:亀井広忠
尺八:藤原道山

舞台上に能舞台の橋掛りよろしく,三日月の形をした傾斜のある回廊が設置されています.一般の能舞台の橋掛りも緩やかに傾斜しているということですので,伝統に即した上での構造です.月はもちろん狂気の象徴でしょう.上手に尺八,下手に鼓.冒頭,舞台奥に中島敦の遺影が掲げられ,モーツァルトのレクイエムが流される中,野村萬斎によってその生涯が紹介されました.

前半の『山月記』で,萬斎は主人公の李徴を演じつつ,所々で挿入される中島敦の他作品からの文章の引用によって,敦本人の独白を朗ずる役も負います.李徴の「分身」も登場し,この主人公の複雑な多面性を表現します.舞台上の立体回廊がうまく使われ,虎となった李徴と旧友が遭遇する夜明け前の山道の不穏な雰囲気がよく表出されていたと思います.

特筆すべきは尺八と鼓によって演奏される音楽です.静謐な空間の中にほとばしる情念は,現代性をもって聴き手をゆさぶります.楽器は和物ですが音楽はきわめて普遍的で,私の耳にも何の違和感なく,いやそれどころかとても鮮やかで刺激的なものとして届きました.

休憩をはさんで後半は『名人伝』.仙山で修行を積んで他に並ぶ者のない弓の名人となったはずの紀昌は,町へ戻った後まったく弓に触れようとしないにもかかわらず,周囲が勝手に創作した数多くの神秘的な武勇伝を通して神格化されます.しかし晩年,招かれた家に飾られてあった弓を目にして,それは何という道具で,何のために用いるのかを真剣に問うのを聞き,その家の主人はほとんど恐怖に近い狼狽を感じたと伝えられます.

この話は,私にとっては禅の十牛図です.牛という真理を追って旅に出て,苦難の末に牛を得て里へ帰還する.これが悟りに到達したということかと思っていると,十牛図ではその牛を結局手放してしまうのです.到達し得たとする真理そのものからも自由になるというところで悟りが完成する...というのが私の理解なのですが...

『名人伝』は中国の古書に示された話を土台に,この構図を展開したように見えます.しかし,この話にはどこまでもシリアスな『山月記』とは異なり,諧謔の風味が含まれていることが重要です.野村萬斎による今回の演出では,上に書いたような禅的論理を相対化し,われわれの日常とかけ離れた非現実性をもつものとして嗤うシーンが多く設定されていました.

萬斎自身が前回公演のときに語っているように,前半の『山月記』は能,後半の『名人伝』は狂言なのかもしれません.これらが朗読ではなく演劇として演じられることは,全体構成,音楽,そして何より各所に挿入される他作品の一部によって,中島敦作品全体の現代的意味を問い直そうという試みとして共感できるものでした.

なお,本公演とは関係がありませんが『山月記』が何故これほどまでに高校教科書に採用されるようになったのかは興味深いところです.私もいまだに一部は暗記しているほどです.この理由を考察した本も出版されているようですね.また,『名人伝』から私はほとんど自動的に,オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』を思い出します.いろいろな記憶を喚起された有意義な舞台でした.

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最悪想定する傾向はあるでしょうね.でも石橋叩いているだけの人生はつまらない.

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