インド・旅の風景 - 堪えがたい不条理を悲しむこと

35年前.長く滞在したボンベイ(現在はムンバイと呼ぶ)を出発したのは,霧に包まれた早朝でした.私の乗った長距離バスは,インドの市民やわれわれ外国人旅行者を乗せて南へ向っていました.進むほどに霧は深くなり,見通しがききません.バスは速度を落として走っていました.

イギリスの植民地であったインドでは,自動車は日本と同じく左側通行です.その日私はバスの進行方向に向って右側の窓側座席に座っていました.朝早かったこともあって,少しうとうとしかかった時のことです.突然,バスの右側対向車線を猛スピードでカーキ色に塗られたアンバサダーが追い越して行きました.本当にかなりのスピードだったので,寝入りかかっていた私も目が覚め,見通しがきかないのに危険な運転をする奴だと腹が立ったことを覚えています.

それから間もなくです.バスが急に速度を落としました.もともとゆっくり走っていたので,停止しかかるような極低速です.どうかしたのかとフロントガラスを通して前方を見ていると,やがて白い霧の中からぼんやりと黒い影が2つ現れました.牛です.2頭の黒い牛が道路に横たわっていました.1頭は口から泡を吹いてもがいており,もう1頭はまったく動きません.

すぐに,さっきのアンバサダーがはね飛ばしたのだと直感しました.バスは慎重に牛を避けて前進しましたが,すぐに車線をふさぐように停まった車に行く手を阻まれて停止せざるを得ませんでした.思った通り,追い越していったアンバサダーです.そしてそのさらに前方には,無残に破壊された荷車が転がっていました.

アンバサダーは,2頭立ての牛車をはねたのだと理解するのに時間はかかりませんでした.さらに近づくと,老人が小さな男の子を抱きかかえ,はねたアンバサダーの乗員に必死で何かを訴えています.彼らは二人で牛車に乗っていたのでしょう.男の子は血だらけで,ぐったりしてまったく意識がないようでした.車の乗員が何人いたかは確認できませんでしたが,窓から見えた男はインドの軍服姿でした.

老人の訴えは明らかです.事故を起こしたものの無傷で走行可能なアンバサダーで,この子を病院へ連れていってくれと懇願しているのです.しかし驚いたことに,その軍人はこの老人の救いを求めるきわめてまっとうな願いをまったく受け付けず,頭から大量に出血して明らかに生命の危機に瀕している子供を搬送することを拒否しているのです.

信じられないような光景でした.明らかに自らに非があって起きた事故に対して責任を取ろうともせず,小さな子供の命を見捨てようとしているのです.インドのヒンドゥー社会には,よく知られたカーストという身分制度が根強く残っており,おそらくこの老人や子供は低カーストに属する人たちなのでしょう.そうした因習にとらわれた軍人から見れば,そのような賤民を同乗させるなどということは最初から頭にないのだと.

私はこのとき,本当に遠いところに来ていることを自覚しました.自分が当然と考えることがまったく通用しない世界というものが,厳然として目の前にあることを実感したためです.このような人たちと折り合いをつけて何とかやっていくことが,果たして本当にできるものなのか?

あの状況に対して,私のできることはありませんでした.いや,バスに乗りあわせて多くが眠ったまま事故に気付いていない西洋人の若い旅行者たちを起こし,あの子を救うためにこのバスの中からみんなで声を上げようと呼びかけることができたのでは?

しかし無情にも,客を乗せたバスは事故を起こしたアンバサダーと荷車を回避し,またゆっくりと目的地に向って走り始めました.私は遠ざかる彼らを振り返って目で追いましたが,やがてその姿は次第に霧の中に消えていきました.

私には結局傍観していることしかできませんでした.自分たちは,人の命が最優先されるということが当然だと考える社会に暮らしているはずだけれど,そうは考えない世界もまたわれわれのすぐ隣に存在するのだ.ほとんど痛みをともなうほどの悲しさをもって,その堪えがたい現実を受け止めざるをえない出来事でした.

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コトバ(文字)にできない

こちらのブログではあまり見かけることのないようなテーマの記事に驚きました。

そのような経験をされていたとは驚きました。

おそらく、ここ数日の事件になぞらえての今回の記事なのかなぁと思っているところです。

あたりまえと言いますか、常識と言いますか。
そのようなもの(こと)は、自分自身が身を置いた極狭い領域でしか通用しないもの(こと)であるということを感じることのできる今回の記事でした。

読ませていただきありがとうございました。

Re: コトバ(文字)にできない

はるか昔にした長い旅のエピソードが,何かの拍子にフラッシュバックします.
数は多くはないですが,そうした思い出話は「旅行」カテゴリに入れてあります.
今だっていい歳をして成熟にはほど遠いですが,さらに未熟な時代の思い出なので,
凹む話や失敗談が多いです.でも強い印象を持ったことなのでどれも記憶ははっきり
していて,当時見たまま・感じたままのことを書いているつもりです.ご指摘の通り,
今回はあまりにもやりきれない感情が契機となったように思います.
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最悪想定する傾向はあるでしょうね.でも石橋叩いているだけの人生はつまらない.

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