今年もカトリック夙川教会でクリスマス・コンサート

今年のクリスマスも昨年と同様,テレマン室内オーケストラと室内合唱団のクリスマス・オラトリオを聴きに,カトリック夙川教会へ行ってきました.今年は前半にヘンデルのメサイアが演奏されるのも楽しみです.

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教会も電飾されています.キリスト教の教会ですから,クリスマスを祝うのは自然です.去年ほど寒くありません.東の夜空には満月が煌々と輝いていました.

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手続きを済ませてチャペルへ.席は自由です.着いたのが去年よりだいぶ早かったので,今年は真ん中あたりのいい席に座らせてもらいました.しばらく待つと,ほぼ定刻に前半の『メサイア』が始まりました.合唱やアリアのパートでは,オケと合唱隊が並ぶ頭上に和訳された歌詞が投影されます.ときどきそれを見上げて,物語の進行状況を把握します.

ソロ歌手では,昨年も感じたとおり,テノールとバスが大変立派でした.たぶん私は男性歌手のリサイタルは聴いたことがないと思いますが,今回は比較的近くで聴けたので,歌手の身体全体が楽器の働きをしていることが納得できた気がします.

メサイアは第1部だけが演奏されましたが,終わり近くで現われるソプラノとアルトの二重唱『神は羊飼いのようにその群れを養い』は,先日エマ・カークビーも歌ってくれました.

後半は本題のバッハ『クリスマス・オラトリオ』.これは昨年同様第3部までの演奏です.ティンパニが入り,管楽器も前面に出てきて祝祭的雰囲気が高まります.これも去年書いたことですが,第1部と第3部で活躍するトランペットの首席奏者がすばらしいですね.よく作り込まれた大排気量エンジンが軽々と回っている感じ.音の立ち上がりが最高です.これだけでも,音楽を聴く愉しみが満たされる思いがします.

最後はクリスマス・キャロルを一緒に歌います.『諸人こぞりて』の歌詞も部分的にしか覚えていないので,頭上に投影された字句を追います.ふと,昔綾戸智恵が,「上を向いて歌えば何でもゴスペルになる」と言っていたのを思い出しました.もちろんこれは本物の賛美歌です.

やっぱりクリスマスの夜に教会で音楽というのはいい.今回も去年と同じく妻と私の母と3人で聴いたのですが,キリスト教自体には何の関心もない85歳の母が毎年一緒に来たがる理由がなんとなくわかる気がします.

映画: ピロスマニ

グルジア(ジョージア)の画家,素朴な筆致で動物やグルジアの人々を描いたニコ・ピロスマニの生涯.19世紀末から20世紀にかけて生き,無名状態から一躍注目を浴びますが,やがてその画風が批判され,失意と困窮のうちに世を去りました.ギオルギ・シェンゲラヤ監督.シネ・リーブル梅田.

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1968年に製作され,日本公開は1978年ですが,この時はロシア語吹き替えだったそうです.今回,グルジア語のオリジナル・バージョンがデジタル化されて再上映されています.

冒頭,新約聖書のイエス・キリストのエルサレム入城の場面が読み上げられます.そこに,両親を亡くして田舎の姉夫婦に養われていたピロスマニが,周囲の説得を拒否して「私は町へ行かなければならない」と宣言する場面が続きます.ここで観る者は,この物語で芸術に殉じたピロスマニの過酷な人生が描かれるのを予感することになります.殺されることを承知の上でエルサレムに入って行ったイエスのように.

とはいえ最初から絵画で生きていくつもりはなかったようで,いろいろな仕事をするけれと長続きしないという生活を送ることになります.極めて自尊心の強い性格で,親しかった友人とも決別して孤独を守ります.パンフレットの場面は,その友人と営んでいた乳製品の商店を閉めたとき,入り口に飾っていた彼の絵2枚を求めに応じて売り,それが運び去られるところです.

その後,酒場の壁に掛ける絵を主の求めるままに描いてわずかな生活費を稼ぎますが,やがて偶然その絵を目にしたある画家によって世に知られることになります.一躍時の人に.しかしまもなく新聞上で,その画風が幼稚であるとの非難を受けてしまったことで,それまで彼の味方であった友人たちも揃って彼を侮蔑し,見放します.町から消えてしまった自分の絵を探して坂を登るピロスマニの姿は,あたかも十字架を背負ってゴルゴダの丘を登っているかのように見えました.

ピロスマニはピカソに絶賛されるなど死後に再評価され,現在ではその姿が紙幣に印刷されるなど,国民の英雄的扱いを受けているそうです.こうした処遇は彼の芸術には相応しくないように感じますが,グルジアという国家のことを想像するに,人々が確固としたシンボルを欲するのも無理はないと思えてきます.

地図で現在のグルジアの位置を確認すると,それだけでここに暮らす民族の艱難に満ちた歴史が見えてくるようです.北の国境は強大なロシアと接しており,この映画が制作された当時グルジアは言うまでもなくソ連邦に属していました.現在のウクライナを見てもわかるように,ロシアが周辺の民族にどんなことをしてきたか,そして現在も何をしているのかが理解できます.

他方,南側はトルコをはじめとしたイスラム圏に接しています.グルジアには正教会のロシアとイスラムの蹂躙を交互に受けてきた歴史があります.その中で,グルジア人は一貫してキリスト教徒であることを守ってきました.本作品の文脈も,彼らにとっては自然なものなのかもしれません.

作品中,ピロスマニの姿を描いたグルジア人監督は,まったく同じ熱意をもってグルジアの民族衣装や風俗を活写しています.これほどの民族主義的態度を,当時のソ連中央がよく認めたものだと思います.以前,ソ連邦解体前夜のモンゴル紀行について書いたとき,ウランバートルの人々の抑圧されてきた民族意識が噴出している様を目撃した件に触れました.本作品の主題はもちろん孤高の画家の誇り高さを描くことですが,作品が撮られた時代のグルジア人の静かな抗議も見逃せない点だと思います.

エマ・カークビーの聖歌を聴く

リュートとハープをバックに,ルネサンスからバロック期の聖歌を歌ってくれました.フェニックスホール.

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カークビーは2年前にやはりこのフェニックスホールで聴いています.この時はジョン・ダウランドの古典歌曲が中心でしたが,人柄そのものの自然なノン・ヴィブラートにとても好感を持ちました.この時はつのだたかしのリュートだけが伴奏しましたが,今回はそれに伊藤美恵のバロック・ハープが加わります.演奏曲目は以下でした.

C. モンテヴェルディ:神を賛美せよ
B. ストロッツィ:ああ,マリア,なんと美しく
        …
R. バラール:アントレ (つのだ)
身ごもれし乙女/教徒たちは教会に従い/天高きところで讃え歌おう (つのだ)
        …
T. キャンピオン:光の創造主よ
J. ダウランド:この震える影
W. バレット.ソングブックより:乙女の歌う優しい調べ
        …
G.F. ヘンデル:サラバンド ニ短調 HWV 437 (伊藤)
G.F. ヘンデル:「メサイヤ」より 神は羊飼いのようにその群れを養い
        …
W. バード:東方の澄んだ空に星が輝き
<休憩>
C. モンテヴェルディ:シオンの娘よ,大いに喜べ
G. カリッシミ:ようこそ,幼子よ
        … 
フランスのノエル:来たれ,救い主よ (つのだ/伊藤)
イギリスのキャロル:天の女王よ,祝福を受けたまえ (つのだ/伊藤)
スペイン ウプサラ写本より:ファラララン (つのだ/伊藤)
R. トロンボンチーノ:美しい乙女 (つのだ/伊藤)
ドイツのクリスマスキャロル:パラが一輪咲きいでた (つのだ/伊藤)
イギリス古謡:グリーンスリーブス [マリアの膝に眠るこの子は?] (つのだ/伊藤)
        … 
J.S. バッハ:開け,わが心よ
P.F. ベデッカー:イエスは生まれた

私にとってはほとんどが初めて聴く曲ばかりでしたが,こうしたある意味素朴な曲たちを聴いていると,当たり前のことながら,クリスマスとはキリスト教徒がイエスの生誕を祝う祭日なのだと改めて再確認することになります.多くは祈りをそのまま旋律にのせたような趣の歌曲で,私にはたぶんいつまでも本当には理解できないだろうと思っています.

しかしそのなかで,やはり比較的時代が新しいヘンデルの2曲は,極東の異教徒にさえ感銘を与えうる普遍性をもった音楽です.とくに,「メサイア」中にソプラノとアルトの二重唱として現われるアリアを編曲して歌った『神は羊飼いのようにその群れを養い』は素晴らしかったと思います.

カークビーが天使の声をもつと言われてきたのは,声質だけでなく技巧性を感じさせないその唱法にも理由があったのだろうと思います.しかし2回のライブを聴いた印象では,おそらくは年齢を重ねて声質も変わり,現在はむしろ中音域の説得力が深く心に残りました.その最も顕著な例は,アンコール2曲目の“I wander and wonder (I Wonder as I wander)”です.クラシック歌手だけでなく,古くはジュリー・アンドリュースやジョーン・バエズ,バネッサ・ウィリアムスといったポピュラー音楽歌手も歌っている有名なクリスマス・キャロルです.

このフェニックスホールでは,アンコールになると舞台後ろのスクリーンがせり上がっていき,一面のガラス窓を通して夜景が見えてくる仕掛けになっています.この夜はクリスマスが近いこともあって,イルミネーションの輝く御堂筋の街路が華やかで,そこを無数のクルマが走っていました.それら無数の,しかし無音の光源を背景に,カークビーが無伴奏で"I Wonder as I wander"と歌い始めたときは,ほとんど胸を衝かれる思いがして本当に鳥肌が立ちました.作詞されたのは20世紀になってからで,クリスマス・ソングとしてオーケストラをバックにゴージャズなアレンジがなされることが多い曲ですが,エマ・カークビーによってそれが「聖歌」となった瞬間に立ち会ったような気がしました.

フェルメールとレンプラント-17世紀のオランダ絵画展

フェルメールなら見に行かないわけにはいきません.今年は夏に『天文学者』を観たことが記憶に新しいところです.会場は同じ京都市美術館.

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12月としては暖かい日曜日,四条河原町から祇園白川を通って岡崎方面へ.どんより曇った日でしたが,紅葉が盛りのカエデもまだ残っていて,風景に鮮やかな色彩を与えてくれていました.

本展の構成は次のようでした.

Ⅰ ハールレム,ユトレヒト,アムステルダム-オランダ黄金時代の幕開け
Ⅱ オランダ黄金時代
 Ⅱ-1 風景画家たち
 Ⅱ-2 イタリア的風景画家たち
 Ⅱ-3 建築画家たち
 Ⅱ-4 海洋画家たち
 Ⅱ-5 静物画家たち
 Ⅱ-6 肖像画家たち
 Ⅱ-7 風俗画家たち
Ⅲ レンブラントとレンブラント派
Ⅳ オランダ黄金時代の終焉

オランダが海運国家として飛躍的発展を遂げた17世紀,経済的繁栄を背景に芸術文化面でも豊かな時代を迎えます.上に示した各章の標題からも,当時の画家たちが画題とした対象はそうした時代背景を強く反映したものであったことがうかがわれます.画家たちの画風には経済的基盤を得た新興市民の要請に応えようとした形跡があり,いずれも親しみやすい絵画が多かったように思います.

しかし裏返して言えばどの作品も理解しやすいものの強い個性は持たず,どの作家のものを観ても同時代なら区別が付かないほどよく似ているようでした.レンブラントの『ベローナ』も,古代の戦いの女神像ではありますが,超絶的な美形ではなく,そこらへんのおばちゃんが鎧を着たように描かれています.これも画題との親近性を意識した結果なのでしょう.

そのレンブラントの弟子の中では,カレル・ファブリティウスの2作品,『帽子と銅よろいをつけた男(自画像)』と『アブラハム・デ・ボッテルの肖像』が出色でした.生きた人間の内面も含めた全体像が克明に描かれているという点で,他の画家の工房的作品とは明らかに絵画に対する向き合い方が異なっていた気がします.32歳で夭折したそうで,残念ですね.

ところでフェルメールは? フェルメールは,風俗画家の中に配置されていました.パフレットの『水差しを持つ女』1点です.ラピスラズリの絵具はフェルメールには欠かせませんし,背景に象徴的な事物が置かれるのも定石通り.特にこの作品ではそれが地図であり,盛んであったオランダの国威を連想させます.ただ,会場の照明は暗く,本当はもっと鮮やかなのだろうなと感じながらの鑑賞でした.こちらの目が若い頃に較べて光を感じにくくなっていることもあるとは思います.まともに見えなくなる前に,もっと多くを見ておきたいという思いが年々痛切になります.

絵画展全体の標題はフェルメールとレンブラントですが,それぞれの作品は1点ずつ.全体としてはサブタイトルの「17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち」が正確です.もちろん37点しか確認されていないフェルメールはそうそう観ることができないので,1点でも貴重です.1月5日まで.正月休みにもう1回見ておくか?


映画 『黄金のアデーレ』

この2ヶ月ほどは私としてはいつになく忙しく,その間にも観たいものは観て聴きたいものは聴いていたのですが,振り返ってみるに余裕がなかったことは確かです.だいぶ時間が経ってしまって印象が薄れかかっていますが,せっかく見聞きしたものに関して何もメモせず放置するのが惜しい.もちろん自分が勝手にそう感じているだけなのですが,これがここに何か書くようになって変わったことかもしれません.

というわけで,年末に向かって思い出しつつ書いていくつもり.時系列でいくと,まずは標題の映画『黄金のアデーレ』.グスタフ・クリムトの描いた肖像画を,もとの所有者の親族が数十年ぶりにオーストリア政府から取り戻すまでを描いた実話.TOHOシネマズ伊丹で観ました.

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美術品を取り戻す話というと,私は子供の頃見た『大列車作戦』を思い出します.第2次世界大戦末期,パリを占領していたドイツ軍が,敗色濃くなる中美術館にある所蔵品を運びだそうとしますが,フランス人レジスタンスと列車運転士がそれを妨害するため奮闘するという実話ベースのハリウッド映画でした.運転士役のバート・ランカスターをかくまうジャンヌ・モローが,子供心にはどこか不機嫌そうに見えて仕方ありませんでした.

話が脱線しています.本作『黄金のアデーレ』にもナチの占領が深く関わっています.19世紀末のウィーンで,クリムトはユダヤ上流社会に属していたアデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像画を2点描きます.そのうちの1枚『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』は,戦中戦後のウィーンの混乱の中,アデーレ自身の遺言にしたがってオーストリア政府が所有することになります.しかし,ナチの迫害を逃れてアメリカに渡ったアデーレの姪マリア・アルトマンはこれを認めず,オーストリア政府を相手に所有権を争う訴訟を起こし,2006年に勝訴して絵はマリアの手に渡りました.

以上が話の概要ですが,背景には戦時に諾々とナチを受け入れ,さらには彼らの言うままにユダヤ人を迫害したウィーンの人々やオーストリア政府に対する抜きがたい不信と,その一方で懐かしい故郷としてのウィーンへの郷愁がないまぜになったマリアの心象風景があります.

重要な役割を演ずるのがマリアの弁護士であるランドール・シェーンベルクで,情けないヘボ弁護士が,この訴訟を通して自己を確立する姿が描かれます.ランドールの祖父は何とあの12音階のアルノルト・シェーンベルクであり,言うまでもなくユダヤ人です.ランドールがウィーンでシェーンベルクの弦楽四重奏曲を聴くところは,できすぎ感もありますがアイデンティティを再確認したエピソードとして印象深い場面です.

クリムトの絵画が好きかと言われると,正直それほどではありません.2003年に兵庫県立美術館で開かれて私も見にいったクリムト展には『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』は来ていませんが,金色の背景に退廃的な女性という絵画は個人的には愛情を向ける対象にはならないと思います.こうした爛熟の美(というものがあるとして)には,微かですがどうしようもなく鼻につく腐臭みたいなものも同時に感じられ,同じ時代に同じ空気を共有したコミュニティには熱烈に支持されたのかもしれませんが,それが普遍性を持つかは疑問です.

『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』は現在,化粧品のエスティ・ローダーの息子ロナルド・ローダーが買い取ってニューヨークの小さな美術館に展示されています.言うまでもなくローダー家はユダヤ人です.こういう言い方をすると差別的と解釈されてしまうかもしれませんが,この作品からは米国におけるユダヤ・コネクションの強力さを思い知らされます.もっともそれこそが,19世紀から20世紀にかけてのユダヤ人に対する迫害がいかに苛酷なものであったかを物語っているのでしょう.

いずみシンフォニエッタ大阪のモーツァルト

モーツァルト晩年のコンチェルトと交響曲『プラハ』.いずみホール.

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現代音楽の演奏を主な設立目的に掲げたいずみシンフォニエッタ.今回は古典を取り上げます.しかも,演奏される3曲はどれも個人的に偏愛しているもので,これは聞き逃せません.

1曲目のクラリネット協奏曲.ポール・メイエがソロをとりながら指揮します.モーツァルト最晩年,死の2ヵ月ほど前に書かれた最後のコンチェルト.私にとってこの曲ほど,年を経て良さがわかるようになった音楽はありません.昔は,確かに美しい曲ではあるけれど,いかにもまとまりすぎて刺激に欠け,明るいようなそうでもないような曖昧な雰囲気にみんなが言うほどの魅力を感じることができませんでした.

しかし,一聴きわめて平明でありながら,これほどの憂愁と諦念に彩られた深い滋味というものはそんじょそこらにあるものではなく,それが自分の年齢がかさむにしたがって痛切に胸に迫るようになってきました.第2楽章,残り少ない生をいとおしむかのように,惜別の歌が微光を放っています.

次がピアノ協奏曲なので,ここで休憩が入ります.アンドレアス・シュタイアーの弾き振りとなるので,天板を外したベーゼンドルファーが搬入され,鍵盤が客席を向くように配置されました.

曲は27番で,これも“最後”のピアノ協奏曲です.お気楽な娯楽音楽としてピアノ・コンチェルトを書いてきたモーツァルトは,20番台になって突如自己の内面を吐露し始めます.少なくとも私にはそう聞こえます.しかし大傑作を連発した後のこの27番では,そうした深い内省のようなものは一見再び影を潜めたかのようです.しかし,第1楽章でのほの明るい楽想の中,独奏ピアノが入ってきて序奏の雰囲気を引き受けますが,すぐにモーツァルトらしい気分の陰りが現われます.

それでも,ロマン派音楽のように,その落ち込んだ気分から刻苦のプロセスが始まるようなことはなく,オケの後押しですぐに立ち直るのもモーツァルト.こうした微妙な気分の揺らぎはその後も繰り返され,やはりこの時期のモーツァルトのコンチェルトが単なる娯楽音楽でないことは明らかです.

そうした秘やかな感情をあるがまま受け入れるように曲は進行し,第2楽章へ.ピアノは静かに物思いに沈みますが,クラリネット協奏曲第2楽章ほどの痛切さはまだありません,逆に,澄んだ清らかさが印象的です.そして第3楽章.快速のロンドで楽しいのですが,やはりふとしたときに微かな哀しみが聞こえることがあります.変ロ長調のロンドといえば,ブラームスのピアノ協奏曲第2番第4楽章がそうですね.どこか通底した楽想がある感じがします.

私にとってこの曲はまだ探求の余地がだいぶ残されている気がします.要するに,もっと深く理解できる日がくるのではないかという予感があります.実際そうなればいいのですが.モーツァルトが35歳で表現したことを,自分が70歳になっても理解できないのはちょっと淋しいですかね.

再び舞台の配置替えのために休憩が入り,第3幕の『プラハ』が演奏されます.この曲が好きなことはこのブログを書き始めてすぐ,プロフィールに書きました.ライブで聴くのは初めてです.

指揮はこの日1曲目にクラリネットを独奏したメイエ.荘重にスタートしますが,やがて歓喜の声が沸きあがり,力感に満ちたリズムと旋律で音楽全体が高揚します.今回の席は右翼のバルコニーで,聞こえてくる音のバランスは正面とはだいぶ違い,ティンパニが席の真下からやや強めに聞こえます.しかしそれもこの曲の華を強調するように響いてこちらも気分がアガりました.フルートの女性第一奏者が大活躍で,格好良かったです.清澄と憂愁の色濃い第1・2幕との対比が鮮やかなプログラムでした.

アンコールはシューマンの幻想小曲集より第1曲.メイエとシュタイアーのデュオで演奏されました.

クラリネット・ヴィオラ&ピアノ

今井信子が変則的なトリオ構成で古典から現代曲までを演奏しました.フェニックスホール.

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奏者は,クラリネット:ヒェン・ハレヴィ,ヴィオラ:今井信子,ピアノ:キム・ソヌク.
演奏曲目は以下です.

モーツァルト:ピアノ,クラリネットとヴィオラのための三重奏曲 変ホ長調「ケーゲルシュタット」K498
ブラームス:クラリネット・ソナタ 第1番ヘ長調 作品120-1 (ハレヴィ/キム)
<休憩>
クルターヴ:R.シューマンへのオマージュ 作品15d
シューマン:おとぎ話 作品132
ブラームス:ヴィオラ・ソナタ 第2番 変ホ長調 作品120-2 (今井/キム)

最初のモーツァルト.出だしの重々しさにあれっと思いました.浮き立つようなリズムが感じられません.ジャズの言葉で言うと,スイングしてないということになります.フロントの二人はすばらしいと思うのですが,ピアノがとにかく重くて愉悦感がなく,モーツァルトを聴いている実感が乏しい演奏でした.

しかし次のブラームスでは一転,この作曲家の作品にふさわしい「突き抜けられない苦しみ」みたいな感情の表現にピアニストの個性がぴったりマッチしているようでした.クラリネットの暗い音色も,きっとブラームスならこの楽器を好んだだろうと思わせるものでした.

後半一曲目はクルターグ.作曲は1990年とのことで,ブラームスからちょうど100年後の曲ということになります.タイトル通り,ロベルト・シューマンに捧げた曲ですが,もちろんロマン派音楽とはかけ離れた現代曲です.しかし音楽としては簡明なもので,神経を逆なでするようなところもありません.愉しく聴けました.

続いてはそのシューマン自身のメルヘン.ライン川に飛び込む前年の作曲で,精神的には困難であったと思いますが,そんな苦悩が表れているとは思えません.しかし,クラリネットやヴィオラという,どこか暗く鈍い光を発するような音色の楽器を選ぶ時点でその兆候はあったのかなとも考えました.

最後のブラームスは前半に1番が演奏されたクラリネット・ソナタの第2番のヴィオラ版.これはすばらしかった.この日最大の聞きものでした.とにかく今井のヴィオラがとてつもなく大きな表現で,ロマン派向きと思えるピアノとの相性も完璧でした.ブラームスの曲は,ともすると聴き手をうつむかせてしまうようなところがありますが,今井信子のヴィオラの香り高さと骨格がそうさせません.大芸術家の風格でした.


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Author:choby
最悪想定する傾向はあるでしょうね.でも石橋叩いているだけの人生はつまらない.

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