周防大島

今年も友人の墓参りに山口県の柳井へ行ってきました.亡くなって37年が経ったことになります.今年も私を含めて3人が参加しました.実家には90代半ばになられたお母さんが一人で暮らしておられます.こちらの年齢が外見に顕著に現われるようになってきたのに対し,ここ数年お母さんは年を重ねているように見えません.それどころか,夏の盛りに体調を崩した娘(友人の姉)を見舞って手伝いに行っていたとのことで,まったく畏るべしというほかありません.

10年ほど前までは,我々の夏の訪問を待ち構えていてご自分で計画を立て,岩国や宮島の老舗旅館に一緒に宿泊するのが常でした.さすがに現在では外泊はもうちょっと辛いということですが,それでも柳井市内での夕食では2時間近くを我々と一緒に過ごして帰って行かれます.最近はさすがに友人の思い出話をすることもほとんどなくなり,お母さんの関心の対象は我々や我々の家族の近況のようで,酔っ払った我々の話を注意深く聞いておられます.

一泊した後,今年は天気が良かったので周防大島をドライブすることにしました.お母さんもクルマで景色を見るのはお好きなので,当然お誘いします.レンタカーの新型プリウスで大島大橋を渡り,海岸沿いをクルーズ.実はお母さんはこの周防大島の生まれで,むしろ島内のことは我々よりよくご存じです.

周防大島にはいくつかの見るべきスポットがありますが,その中で印象に残る場所の一つはやはり陸奥記念館です.昭和18年,大島沖停泊中に原因不明の大爆発を起こして沈没した戦艦陸奥に関する記念館です.館内には引き上げられた船体の一部なども展示してあります.戦艦の装甲などというものはまったく途轍もないものであって,こんな構造をした鉄塊がそもそも水に浮かんでいたこと自体に残酷な痛々しさを感じます.

お母さんは爆発があった時に聞いた轟音や,見聞きした遺体収容の様子などを何度か話してくれたことがあります.思えばこの地域は先の戦争の記憶というか気配のようなものが濃厚な場所だといっていいと思います.岩国はほんの20km北だし,同じく重要軍事拠点の呉も近い.それに何より広島.

今回も,ドライブ中の海岸線で,自分は戦時中工場労働に徴用されていて,工場近くのこの海岸から広島原爆のキノコ雲を見たと話してくれました.その時は弾薬庫の大爆発だと思ったとのことでした.また,岩国方面上空で,戦闘機同士の空中戦も見たことがあるとも.複葉機(という言葉をそのまま使って)が盛んに上下するんです,と仰ったのは,たぶん実戦ではないのではないかと思いましたが,お母さんは譲りません.太平洋戦争当時に小型複葉機がどういう使われ方をしていたのか,私にはまったくわかりません.しかし,これもお母さんには戦争の記憶としていつまでも忘れがたいようでした.

しばらく走って,高台にあるカフェに立ち寄りました.ちょうど昼時で,店は若い女の子達で混んでいました.私はかつてお母さんがあれらを見た方角に目を遣ってみました.この日はまだ夏の暑さが残り,瀬戸内の島々の陰が穏やかに霞んで浮かんでいました.


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ネパール・旅の風景 -ポカラへの山岳路

カトマンズのゆったりした雰囲気と,あの隣国よりもはるかに穏やかな人々のおかげで復調した私は,再び移動を始めることにしました.復帰後最初の目的地はカトマンズの西方200km,ネパール第2の都市・ポカラです.

カトマンズからポカラへは当時もちゃんと空路があって,それなら数十分で行けました.しかし旅費を節約してできるだけ長く滞在したい私は,当然陸路を選択することになります.しかしそのバス旅行は,たった200kmですが実に生命の危険さえ感じる8時間の苦闘となりました.

2大都市を結ぶ長距離バスとはいえその実態はローカルバスで,頻繁に停留所で停まり,その都度地元の人およびその人が連れた家畜が乗り込んできます.最初はエキゾチックだなと余裕をかましていましたが,そのうち日本の都市部通勤電車なみの混雑になりました.こうなると息苦しさともに家畜たちの発する匂いが充満してきて,終いにはもう堪えられないほどになりました.

これは無理だと,ある停留所で停止した際,乗り込んでくる人たちに押し出されるようにしてバスの窓から外に出て,ルーフキャリアへの梯子を登りました.登っているうちにバスが動き出してこのときはほんとに死ぬかと思いました.ルーフへ上がるともう何人か先客がいて,登るときに手を貸してくれた私と同年代の西洋人の女の子と「だよねー」という感じで黙って顔を見合わせて笑いました.アレを我慢するのは彼女にも難しかったでしょう.

しかし,もちろん屋根の上も天国ではありません.吹きさらしのオープンルーフ状態はまあいいとしても,未舗装の道路はでこぼこで揺れがひどく,キャリアの手すりにしがみついていなければ落ちてしまいそうです.深い深い峡谷に沿ってつけられた道はぎりぎり離合できる程度と狭く,あちこちで崖崩れの痕跡が残ったままになっています.そんな場所を通過するときは車体が大きく谷側に傾き,嫌でも谷底を覗き込むことになります.おそらくは旅行者と思われる女性が漏らす小さな悲鳴が何度か聞こえました.

いずれにしても-というのは,車内にいようがルーフキャリアに乗っていようがということですが-バス自体が転落すればまず助かる見込みはないでしょう.実際,この路線でのバスの遭難は過去何度も起こっていると聞いていました.とにかくドライバーが無茶なことをしないように祈るしかありません.

こうして何とかポカラにたどり着くのに約8時間を要したと記憶しています.途中,利用できたトイレは一カ所だけだったと思います.ただ,この時の旅全体を通してみてもハードな移動でしたが,季節が良かったためか,それとも高揚感のためか,あるいは恐怖で感覚がおかしくなっていたせいかは不明ですが,そんなに疲労を感じませんでした.

幹線道路ゆえ,あの道もこの35年のあいだに随分手が入れられたのではなかったかと思いますが,今回の地震でそうした重要なインフラがどうなったか気がかりです.もっとも私にはもう,あの道をバスで通行するというようなマネはできませんが.

ネパール・旅の風景 -1981年カトマンズ寸描(続き)

元はといえばお釈迦さんの生まれたのは現代のネパールに属するルンビニという場所です.ネパールの仏教自体は,仏教発祥以降にインドからもたらされたもので,イスラムによって仏教が滅ぼされたインドで消失してしまったサンスクリット経典がネパールに残っていたりして,仏教研究では重要な場所であるようです.

私はもちろんそうしたアカデミズムとは無縁でしたが,有名な仏教寺院は見ておこうと思い,ボドナートやスワヤンブナートへは行ってみました.日本で寺と言えばくすんだ木造建築が思い浮かびますが,インド・ネパールの仏教寺院は例外なく石造りです.チベット仏教寺院であるボドナートでは,仏塔から張り渡されたロープに無数の小さな旗.これにはお経が書いてあって,風にはためくことで経を読んだことになるそう.そういえばマニ車というのもあって,これは軸を中心としてくるくる回る円筒にやはりお経が書いてあるものです.参拝者がみんな,順番にこれを回して歩いていくのはどこかお手軽っぽくて微笑ましい光景でした.

カトマンズの中心部は道が狭く,もちろんタクシーは入っていけません.基本的には自分の足で歩き回ることになります.現地の人たちはバイクをよく使っており,日本メーカーの125ccオフロード車がたくさん走っていました.確か,私のいるときにそうしたバイクや耕耘機(!)が並んでパレードをしていたような.このあたりはさすがにもう記憶が薄れています.

ただ,レンタルバイクもあったので,半日借りてみました.ホンダの125ccだったと思います.これでカトマンズ郊外に出て,街を遠巻きに一周するソロ・ツーリングをしました.ヘルメットは借りられなかった(かぶる習慣がないようだった)ので,日本ではやったことがないノーヘルでのドライブでした.カトマンズの郊外道路は一応舗装されていましたが路面は悪く,それが荒涼とした風景の中に伸びています.走っていると砂塵が飛んできて顔に当たるし,目はしょぼしょぼするし,それにいざ転倒したときのことを考えると,やはりノーヘルは怖い.そんなわけで,とてものんびりしたツーリングでした.

その旅には標準レンズをつけた一眼レフを持参していて,このバイクツアーの時もリュックに入れていました.ちょうど眺めの良いところで荷車を引いたおじさんに出会ったので,自分の姿を撮ってもらおうと思ってバイクを降り,身振りで「ただここを押すだけでいいから」と伝えても,その人はほんとにすまなさそうに,「私にはそんなことはできません」という感じで手をあわせて固辞されました.

考えてみれば無茶なお願いだったと思います.私はあきらめてありがとうを言い,またバイクのエンジンをかけました.この時の写真は実は結局1枚も残っていません.なぜか風景だけを撮影するということを思いつかなかったんですね.それにしても,この人の振舞からにじみ出る素朴さや地に足のついた様は,旅を通じて感じたことの中でも特に印象的なことの一つで,こんな所まで来てぶらぶらしている自分がかなり恥ずかしくなりました.

こんな風に10日間ほど過ごしているうちに,インドで疲れてしまった心身がだいぶ整ってきました.そろそろリスタートしようと思いながら街を歩いていたら,ふと小さな張り紙を見つけました.ロンドン行き(!)のバスの予約募集をしています.これが話に聞いていたカトマンズ-ロンドン・ヒッピーバスというやつか.ヨーロッパから来て金を使い果たした若者が,最後に残った金でこのバスのチケットを買って帰国の途につくのだと.ホントにあったんだとびっくりしました.予約が一杯になったところでバスが出るという,不定期出発の伝説のバス.

しかし,1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻で,それまでは安全に通過できていたルートが危険になり,1981年時点では都市部を避けてアフガン北部の砂漠地帯を延々走らざるをえないようなルート設定になっていると聞きました.ヒッピーをやっているのも楽じゃないらしい.

無論私はヨーロッパへ向うつもりなどなく,もう一度あの-とんでもなく猥雑だけど,とんでもなく奥深く豊穣な(予感がする)-インドへ戻るつもりでした.カトマンズで見たヒッピーバスの張り紙は,直接の関わりはありませんでしたが,私の旅心をかき立ててくれたことは確かでした.

ネパール・旅の風景 - 1981年カトマンズ寸描

2015年4月,ネパールの首都カトマンズ付近を震源としたM8(諸説あり)の大地震が起こり,多くの人命と歴史ある建造物が失われました.私はこの国を1981年と1988年の2度にわたって旅行しており,美しく穏やかであった街や人々に大いに助けられました.以下,何ら劇的なエピソードはありませんが,当時の記憶を辿りつつ敬意をもって印象を書き留めておこうと思います.

1981年,タイのバンコクを経由してインドのカルカッタ(コルカタ)に入り,入国直後に強烈な洗礼を食らったことはすでに書きました.その後は何とか立ち直り,カルカッタに2週間ほど滞在してから内陸部のビハール州へ向いました.しかし,乾ききった荒野に点在するラジギールやブッダガヤといった仏教史跡の残る町々を歩き回っているうちに,その埃っぽい空気や,どこへ行っても厚かましい物売りや胡散臭い自称ガイドたちに付きまとわれ,ほとほと疲れ切ってしまいました.ただでさえ食事が不規則になりがちな上に,メニューにバリエーションの乏しいことから胃腸もダメージを受け,入国して一ヶ月も経たないうちに完全に参ってしまっていました.

生まれて初めての外国滞在,しかもたった一人の旅です.いざという時頼りになるのは,袋に入れて首にかけているこの赤い表紙のパスポートだけなんだと思うとさすがに心細くなりました.この状況は一旦立て直すしかない.そう考えた私は,ネパールへ向うことを決めました.日本を出る前に,疲れたらそうしろとアドバイスを受けたことを思い出したからです.都合のいいことに,カトマンズ行きの飛行機が飛ぶパトナ空港は,ラジギールからそう遠くありません.それでも体調がダウンしていた私には厳しい移動となりました.

そうしてやってきたカトマンズ.空港から出てすぐ,数時間前までいたインドとはまったく違った空気の穏やかさに心底ほっとしました.旅行者と見て話しかけてくる現地人もいるにはいますが,インドで鍛えられたこちらの神経からすれば圧迫感はほぼ皆無.旅行者の集まるドルバール・スクエアの近くに安宿を見つけ,チェックインしてから周辺の探索に出かけます.

カルカッタは大都会だったし,その気になれば西洋風の食事も中華料理も選べましたが,ビハールの荒れ地の街ではほとんどカレー以外の選択肢はありませんでした.その点カトマンズは天国です.香辛料が強くてカレー中心なことはインドと変わりないのですが,中華の影響を受けた麺類や,チベットの蒸し餃子であるモモなど,バリエーションが豊富です.世界中からトレッキングや私のような貧乏旅行者が集まる街なので,自然にそうなるのでしょうね.

チベッタンモモは口に合ったのですが,チベットの料理がほぼそのままの形でなぜそれほど普及しているのかには,あまり疑問を持ちませんでした.カトマンズ近郊にチベット人難民キャンプがあることを知るに至って納得したわけですが.恥ずかしいことに当時の私はチベット難民がここにいる理由について,よく理解していませんでした.漢民族がチベットではたらいた暴虐について知るのは帰国後です.

数日もすると体調が回復してきました.せっかくネパールに来たのだから,ヒマラヤを見にいこうと思い立ち,バスに乗ってカトマンズ近郊のナガルコットへ行ってみました.どこから見たのか,もう記憶が曖昧になっていますが,展望がきく場所へ行って西側を見ると,最初に予想したよりはるか上に白い峰々が並んでいるのに驚きました.さすが7000~8000メートル級の高山というのは圧倒的です.

ナガルコットからはエベレストも見えると聞いていたのですが,結局どれがエベレストなのか,見えていたのかいなかったのかもわからずじまいでした.ふと耳を澄ますと,どこからか歌が聞こえます.単独ですがすばらしく良い男声で,それが林の木々の間に響いてこの場所の山深さを感じさせてくれます.おそらくは木こりのワークソングだったと思うのですが,単純でとても美しいメロディの繰り返しが印象的でした.

この旋律は絶対忘れないようにしようと,その時はちゃんと覚えたつもりだったのですが,すぐにわからなくなってしまいました.ブラームスならきっと採譜したに違いない.その能力のない自分が残念でした.ネパールの山岳民族といってまず思い出すのは,勇猛で知られたグルカ兵です.その末裔-かどうかはわからないけれど,あのように美しい歌を持っている人たちが確かにここに暮らしているんだと思うと,敬意に近いものが湧いてきました.
(続く)

周防大島・岩国錦帯橋

今秋は紅葉を見ることができずに終わりそうです.土曜に休めなかったり,天気が悪くて出かける気がしなかったり.もう収束したとは言え,休日にかけての食中毒もありました.どうもパッとしない秋です.

PCで写真の整理をしていたら,9月に友人の墓参りに山口へ行ったときの写真が出てきました.もう2ヵ月も経ってしまった.この頃は北海道ツアーのまとめをしていたので,メモを残し忘れていました.

例年と同じく周防大島の海峡の見える宿に泊まり,私以外の二人の友人と夜中まで飲みながら話し続けました.20代の頃から来ているので,この間話題となることもずいぶん変りました.まあ当然と言えば当然ですが,持病や親の介護など,年齢なりの話も私自身はまだそれほど実感せずとも,他人事ではありません.

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若い頃はそうやって飲んだ翌朝は全員いつまでも寝ていて,宿の人もそれをわかっていて,やっと起き出して無人の食堂に行くと,我々のための朝食がいつでもどうぞと置いてありました.今ではみんなちゃんと7時頃には起き出してしまいます.そもそもちゃんと最初から布団の上で寝られるようになりました.昔は先に酔いつぶれて寝てしまった奴を布団へ移動させるのにまったく往生したものです.

墓参りの翌日はいつも何をするか困ります.昨年は石城山へ登りました.今年は岩国へ行ってみました.といっても錦帯橋を渡るのは少なくとも10回目くらいにはなるのではないかと思います.

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陽射しは強かったですが,公園内にはすでに紅葉しかかった樹木を見かけました.話すことは昨晩話してしまったので,特にここで話すこともありません.私以外は東京から来ているので,往復空路です.新岩国駅まで送ってもらい,来年の再会を一応約束して別れました.

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最悪想定する傾向はあるでしょうね.でも石橋叩いているだけの人生はつまらない.

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