シューベルト最後のピアノソナタを聴く -今峰由香リサイタル 後半(第21番)

休憩をはさんで後半は第21番のソナタ.まさにこれがシューベルト最後のピアノソナタです.

死期をほぼ悟って書かれた3曲のうちの2曲とはいえ,前半に弾かれた20番ではまだ現世への思いや友人たちへのメッセージのようなものを聴きとることができました.しかしこの21番ではもう,冒頭から彼岸の微風(体験したことはないので比喩として適切でないかもしれませんが)の芳香が漂っています.そしてそれと対比して現われる有名な低音部のトリル.

この曲の魅力はやはり長大な第1楽章に集約されると思います.一人で知らない土地の淋しい道を行きつ戻りつ.しかしここにこそシューベルトの音楽の神髄があると思わせる時間が過ぎてゆきます.そして中盤過ぎ,変ロ長調から嬰ハ短調に転調して気分が暗く沈んだかと思うと,再び原調に戻って激情を吐露したあと,次の痛切な場面が現われます.

20171228_0.jpg


ここからしばらくの間の寂寥感と切迫感といったら,私には他に比べるものを思いつきません.誰の演奏を聴くときでも,私はここを身を固くして待っています.今回初めてこの曲をライブできくことができ,最弱音のニュアンスも本当に感じることができた気がします.今峰の演奏自体は,20番でもそうだったように私の持っているシューベルト像よりもやや力強い印象でしたが,明快な解釈の一つとして受容できるものでした.

第2楽章は嬰ハ短調で,陰鬱な空のもと歩み出します.しかしゆっくりというより,足がもう前に出ない感じ.途中でイ長調になって陽が射しますが,やがてまた原調に回帰し,曲調は下降しながら堂々巡りするようなラインをを辿ります.

第3楽章のスケルツォは一転して明るい様子で始まりますが,短い時間のあいだに転調していつのまにか音楽は陰影を帯びてきます.そして,第4楽章.第1楽章であのように始まった音楽が,このようなフィナーレを迎える意味が私にはまだわかりません.軽快なテンポの中で,実は意識はここにはなくどこか遠くを見ているような.今峰の演奏を聴いてもそれを理解するには至りませんでした.

この曲を最後まで聴くといつも,何か完結しないものを感じて腑に落ちない気分にとらわれます.しかし,理解できないところはそっとしておいて,いつかその瞬間が来るのを待ちたいと思います.シューベルトのピアノソナタは,この日聴いた最後の大名作群以外も今の私にとって共感できる歌と響きに満ちていますが,特にこの日のようなプログラムを真正面から採り上げてくれたピアニストに感謝したいと思います.

なお,これらの曲に関して,私が参照している楽譜は下記のものです.アマゾンの古本で購入したのですが,おそらくは若い女性と思われる字で書込みが残っています.シューベルトを「表現」するところまでいったのなら,かなりの腕前の人なのかなと思ったり,またその人の使っていた楽譜が私のような音楽の素養ほぼゼロの素人の手に渡るまでに,どのような人生の転換があったのだろうなどと想像したりしました.

 シューベルト集 2 (世界音楽全集ピアノ篇)

シューベルト最後のピアノソナタを聴く -今峰由香リサイタル 前半(第20番)

シューベルトが死を目前にして作曲し,自身では聴くことのなかった最後のピアノソナタである第20番 イ長調 D959と第21番 変ロ長調 D960.この2曲が続けて演奏されました.演奏は,ミュンヘン国立音楽大学教授の今峰由香.聴きに行ってからもう1ヶ月が経ってしまいましたが,メモを残しておきます.ザ・フェニックスホール.

20171225.jpg


この2曲を同じプログラムの中に入れるのは,演奏者もそうだと思うのですが,聴き手の側もかなり堪えました.もちろん肯定的な意味です.この演奏会のことを知ったとき,このようなプログラムを組む演奏家もいるのだと驚いたと同時に,大きな期待を持ちました.何しろ私はこの2年近く,シューベルトのピアノソナタにはまり込んでいるといっても過言ではないので.

さて前半の20番.一聴して明確なタッチ,これまで他のピアニストの録音で聴いて抱いてきたこの曲のイメージと少し違いました.楽譜ではメゾスタッカートが多用されていて,私は他の人の演奏でこのことをあまり意識しませんでしたが,今峰の演奏ではスタッカートに近い印象でした.このピアニストのシューベルト演奏におけるアーティキュレーションの特徴として,まずこの点が顕著だと思います.

シューベルトが死を目前に意識して書いた3曲のピアノソナタの1曲で,状況としては絶望的です.しかしその一方で,私の敬愛するピアニスト伊藤恵の言葉を借りれば,シューベルト晩年(といっても30代)の音楽からは「ボクはもう行くけど,みんなはこれからも幸せにね」というメッセージが聞こえてくると.今峰の演奏からは,そうして気丈に振舞うシューベルトの姿が浮かんでくるようでした.

とはいえ,全体としてダイナミックレンジの広い演奏で,ベートーヴェンの音楽を彷彿とさせる部分が強調されているようにも聞こえました.第1楽章の最終盤で奇妙なアルペッジョが現われたあとの重たい第2楽章も,淡い幻とともに,まだ生きている人間の苦闘が交互に現われます.第3楽章もシューベルトらしく,短いスケルツォながら行きつ戻りつを繰り返します.楽しそうでいて実は淋しい.

第4楽章は感動的な主題で始まります.しかしここでもまた,祝福と昂揚した気分のうちにいると思う間もなく,それはふとしたきっかけで落胆に覆われてしまう.最後にはシューベルトは何か言いかけながら逡巡を繰り返します.主題のモチーフが途中で途切れてしまい,歌いながら「いやそうじゃないんだ,上手く言えないけどこうかな」と迷っているようにも聞こえます.そして様々な思いを振り切るようなエンディング.

それにしてもこの第4楽章は本当に素晴らしく胸打たれます.ちょっと聴きには一体どこへ行くのかわからんという印象で(特に繰り返し部分を全部演奏した場合には)退屈に感じる人も多いようです.しかし何度も何度も聴いていると,これがシューベルトの音楽の絶対的な魅力に変わってきて,これでなくてはと感じるようになります.今回の今峰のリサイタルでは,繰り返し部分を一切カットせず演奏が行われました.
(続く)

クリスマスコンサート2017@カトリック夙川教会

今年もクリスマスはカトリック夙川教会.テレマン室内オーケストラとテレマン室内合唱団の演奏を聴きました.

20171227.jpg


これで4年連続ですが,演目は基本的に毎年バッハの「クリスマス・オラトリオ」第1部から第3部がプログラム後半に演奏されるのは同じです.これはこの演奏会が教会におけるクリスマス礼拝の位置づけでもあるからで当然のことです.今年はそれに先だって,いずれもJ.S.バッハの
  管弦楽組曲第3番ニ長調より序曲(第1曲)
  モテット 第1番「主に向かって新しき歌を歌え」
が演奏されました.

第4番まである管弦楽組曲のうち,この3番が選ばれているのは,やはり序曲における金管楽器の扱いを含めて祝祭的な色合いがもっとも濃いためであると思いました.ただ,私がこれまでいろいろな録音で聞いてきた同曲の演奏に比べるとテンポがものすごく速くて,最後まで少し違和感を感じたまま馴染めませんでした.もともとバッハの曲はゆっくり演奏してもらうのが好きなので.

2曲目のモテットも,特に合唱団にとっては難曲だなあという印象が残りました.指揮はテレマン協会代表の延原武春氏ではなく,アルゼンチン出身のパブロ・エスカンデ氏.

今年は,私の側で宗教曲を聴く心と耳の準備ができていないまま教会へ行ってしまったような気がします.少し間を空けてみるのもいいかなと思った演奏会でした.


J・S・バッハ レクチャーコンサート  -バッハの時代と教会音楽

バッハの音楽に関するレクチャー付きコンサート.ザ・フェニックスホール.

20171126.jpg


講師は大槻晃士氏.学者ではなく,肩書は「バッハ・スペシャリスト」.著名音楽家や有名音楽祭でバッハ音楽に関するアドバイスを行なう立場だそうです.「自分はバッハき●がい」だと舞台上で2度も発言して,かなり脇の甘いところを見せていましたが,きわめて高度な研究者であることは間違いありません.「バッハおたく」でいいのにね.

講演は,バロック音楽における通奏低音に関する話から始まりました.通奏低音とはそもそも何か,バッハがいかにそれを重要とみなしていたか.対していわゆる旋律線は分散和音的であることも多いなど,クラシック音楽を少しでも学んだ人なら当たり前に理解していることなのでしょうが,私にとってはこれまでぼんやりと感じていたことが明確に解説されてすっきりしました.

ところで,大槻氏が演奏する楽器はヴィオラ・ダ・スパッラと呼ばれる古楽器です.音程はチェロと同じですが,長い間これを脚の間に挟んで弾くのかどうかがわからなかたそうです.しかし,残された絵画などを参考に,どうやらベルトを肩にかけて胸の前で弾いていたらしいということがわかりました.実は私は10年以上前,この楽器を用いたバッハ無伴奏チェロ組曲全曲演奏を聴いたことがあります.

コンサートは,大槻氏の解説に続いて順に下記曲目が演奏されていきます.演奏は,曲によりますがヴァイオリン2,ヴィオラ1,ヴィオラ・ダ・スパッラ1,およびオーボエ,オルガン.歌手はソプラノ,カウンターテナー,テノールが1名ずつです.

カンタータ≪イエスよ,今ぞたたえられん≫BWV41より:4.アリア
カンタータ≪泣き,嘆き,憂い,怯え≫BWV12より:4.アリア
カンタータ≪われ希望をもちて歩み求めん≫BWV49より:4.アリア

-休憩-

カンタータ≪片足は墓穴にありてわれは立つ≫BWV156より:1.シンフォニア 2.アリア
カンタータ≪われは生く,わが心よ≫BWV145より:1.アリア
マニフィカト ニ長調 BWV243より 3「Quia respexit(その下婢の卑しき身をも)」、

大槻氏のバッハ論で重要な視点は,「十字架の神学」といわれるマルティン・ルター派の教義です.そう簡単に理解できるものでもなさそうでしたが,大槻氏自身が「ごく単純化して言えば」と断って行った説明によれば,「信仰者は日々イエスを追い,その受難の道を歩むというプロセスを自分の生活を通じて繰り返すことを課される」のだとのこと.

想像してみればこれは極めて苦しい信仰のあり方で,自然現象の中に神様から自分への啓示を見出して恩寵と解釈したり,苦しいことがあってもそれは自分がより良い者になるための試練であると捉えたりするような前向きの「栄光の神学」とは決定的に対立します.バッハの教会カンタータはルター派教会での礼拝用音楽として作曲されたので,そこで用いられている音楽的レトリックもルターの「十字架の神学」を前提しているのだと大槻氏は言います.

これを実証するために,いくつかの例が示されました.分かり易かった例があったのですが,私がメモした曲名(BWV番号)が間違っていて,家に帰ってきてから確認しようとすると,大槻氏の示した曲ではないことがわかりました.現時点で思い出せず,ちょっと残念です.

しかし,大槻氏は嬉しいことに私の大好きな『二つのヴァイオリンのための協奏曲(ニ短調 BWV.1043)』も例に挙げてくれました.この曲は私が楽譜を持っている数少ないクラシック曲の一つです.各楽章の一部を取り出して実際に二人のヴァイオリニストに弾いてもらいながら,解説が加えられていきます.

まず第1楽章.大槻氏が,「苦しんでますね.苦悩がある.でもかっこいいですこの曲」と言ったとき,私ははっとしました.そうか,この曲かっこいいよな.かっこいいと言っていいんだ.

昔のジャズファン(私を含めて)は,演奏の褒め言葉としてやたらに「かっこいい」を連発する習性があって,「かっこいいがわからなかったらジャズはわからない」などと言ったりもします.クラシック曲にはあまり使わない評価語かと思っていましたが,使っていいんだ.しかも「苦しい」.私がこの曲を好きだと思うツボが,実はそういうところにあったのかとわからせてもらいました.

続く第2楽章では天国的な安息が表現されます.形式としての緩徐楽章は,バッハ音楽においてはそうした音楽的意味をくみ取るべきだというのが大槻氏の主張です.そして第3楽章.冒頭の第1ヴァイオリンを第2ヴァイオリンの動きは次のようになっています

20171126_2.jpg


形式的にはカノンです.しかし,第2ヴァイオリンが入ってくるタイミングがきわめて早く,切羽詰まった印象があります.第1ヴァイオリンを第2ヴァイオリンが息せき切って追いかけているような.大槻氏によれば,これこそ十字架の神学を象徴する音楽的レトリックであって,イエスの受難を信仰者がひたむきに追求する在り方を示したものだというのです.

こうした解釈がクラシック音楽の専門家の間でどの程度受け入れられているのか,私には知る由もありません.バッハの音楽はこうした側面を知ることで,はるかに理解が進むという.一方,バッハ研究で著名な学者である礒山雅は,その著書で「バッハ理解にキリスト教信仰は不可欠ではない」と断言しています.

私にとっては,歌詞のついた教会カンタータやマニフィカトだけでなく,宗教性を帯びているとは思ってもいなかった『二つのヴァイオリンのための協奏曲』のような曲においてさえ,ここに示されたような解釈が可能であるという視点が与えられたことだけでも今回大きな収穫でした.バッハの音楽において極度の悲愴感と気持ちよさが同居しているような魅力の秘密に,自分の中では少し光が当たったように思えます.

20世紀ハンガリーとロシアの作曲家を聴く -コダーイ,バルトーク,プロコフィエフ

「東欧・ロシア音楽の魅力」と題された演奏会.兵庫県立芸術文化センター.

20171010.jpg


ヨエル・レヴィの指揮,ピョートル・アンデルシェフスキのピアノで,曲目は以下.

コダーイ:ガランタ舞曲
バルトーク:ピアノ協奏曲 第3番
- 休憩 -
プロコフィエフ:「ロメオとジュリエット」組曲

ハンガリーの作曲家と言えば,この2月にフェニックスホールでクルターグのピアノ曲を聴きました.最初の曲は,クルターグより45年ほど前の時代のコダーイです.『ガランタ舞曲』は勇壮さと哀調が渾然とした冒頭.土臭い民俗性.テンポも目まぐるしく変化し,コミカルな場面も.大小の打楽器が活躍して文句なく楽しい曲です.いったん沈んだ気分を吹っ切るような激情で曲は締めくくられます.

2曲目はバルトーク.上で触れたクルターグが同期のリゲティとともにフランツ・リスト音楽院で教わろうと期待していたバルトークですが,彼らが入学したときにはすでにアメリカへ亡命してしまっていたのでした.3曲あるバルトークのピアノ協奏曲のうち,そのアメリカ亡命中に作曲されたのがこの第3番です.

私個人のことを言うと,バルトークについては弦楽四重奏曲群が少しわかりかけてきて喜んでいたのですが,管弦楽曲はどうも曲想の「屈曲性」みたいなものになかなか馴染めないままここまできました.実はこの第3番のピアノ・コンチェルトは録音でも聴いたことがなかったのですが,予想に反してこの日一番の大収穫曲となりました.

第1楽章冒頭が聞こえてくるなり,若き日のハービー・ハンコックやチック・コリアが盛んに録音していた即興的ソロ・ピアノ曲群の曲想が耳に蘇ってきました.安直な叙情性は排されてドライですが,にもかかわらず胸が熱くなります.ピアノは打楽器的な使われ方をする部分が多いけれど,これはジャズでは当たり前でまったく違和感はありません.

そして第2楽章の静謐さ.宗教的な香りがしますが,どこか異界的で苦悩の影はそれほど濃くありません.時々「いま弾き間違ったんじゃないか」と思えるフレーズやちょっとイラッとくる和音が現われるものの,それが独特のアクセントになっています.バルトークが病没する1945年に作曲された最後のピアノ・コンチェルトですが,諦念と言うより達観といったほうが相応しい精神で書かれた曲だと思います.

フィナーレでは再びピアノが多彩な打楽器と共演します.これがものすごくかっこいい.場面の切換えも速く,ピアノ-管弦楽-打楽器のダイナミックな対話に最後は私も脳内が沸騰しました.コンサートホールでこれほど興奮したのは久しぶりです.心の中でブラボー.大名曲の大名演でしたね.

アンコールはやはりバルトークの『3つのチーク県の民謡』.即興で弾いたような曲でしたが,現代的な歌謡性が新鮮でした.

後半のプロコフィエフ.「ロメオとジュリエット」第1~3組曲から曲順を入れ子にして抜粋演奏されました.スタートは第2組曲第1曲の『モンタギュー家とキャピュレット家』.何といっても日本では『のだめカンタービレ』の挿入曲で有名になりました.ただ,こうした魅力的なテーマがあるにはあるものの,どうしてもバレエ曲というのは純粋音楽としての密度感に欠ける気がして,私はラヴェルの『ダフニスとクロエ』全曲版などを聴いてもすぐに退屈してしまいます.これらと比べると,やはりストラヴィンスキーの3曲は抜きんでて素晴らしいと思います.

アンコールはチャイコフスキーの「白鳥の湖」より『ハンガリーの踊り』.
プロフィール

choby

Author:choby
最悪想定する傾向はあるでしょうね.でも石橋叩いているだけの人生はつまらない.

カレンダー
01 | 2018/02 | 03
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 - - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
リンク
FC2カウンター